第7章 ライン河の橋


1994年9月、日本大学理工学部山崎淳教授を団長とする欧州土木構造物補修事例調査団の一員として、フランス、スイス、ドイツ、ベルギーを橋梁を見学する機会に恵まれました。 その2ヶ月前、(株)長大の上阪康雄氏より依頼された、ドイツ連邦交通省道路建設局1990年発行の 「道路橋の補修・補強事例集」 の独語和訳を手伝っていましたから、いい機会だと思い、同行させて戴きました。

その報告書として、 欧州土木構造物補修補強調査報告、 および、その当時拡幅工事中だった ライン河ローデンキルヘン橋の工事報告 については土木施工に掲載しています。 ライン河ケルン・ローデンキルヘン橋を見学した際、現場建設事務所で多くの資料を戴きました。 本文は、そのうち小冊子「im blickpunkt Rheinbrueucken」を和訳したものです。 この小冊子は、ライン河流域の州連合から発行されたものです。 ライン河流域の州連合とはたぶんノルトライン・ヴェストファーレン州とラインラント・プファルツ州との州連合ではないかと思います。 ライン河に架かる橋の歴史から近代橋梁技術の変遷などについてわかりやすく書かれています。 原本どおりに訳すように心掛けましたが、意味が不明で削除した箇所、十分理解できないまま日本文にした箇所、勝手に解釈して日本語にした箇所など多々あります。 また、原本にはノルトライン・ヴェストファーレン州のライン河橋梁の写真も掲載されています。 ここではレオンハルト教授の「Bruecken and Bridges」から転載しました写真を掲載しています。 また、第8章の「ライン河橋梁」には、北海道土木技術会鋼道路橋研究会のご好意による「北の名橋再発見」からの写真を一部転載しています。

その前にドイツ語での橋の名前について少し触れておきます。

(引用文献:外国語豆知識--ドイツ語編(3)--, 「橋梁と基礎」89-5, p52)

ドイツでは橋の上部構造の形式は、構造形式、架橋場所あるいは用途などにより分類される ことは日本と同じです。 構造形式では、Balkenbruecken(桁橋)、Bogenbruecken (アーチ橋)、Haengenbruecken(吊橋)、 Schraegseilbruecken(斜張橋)といいます。 BalkenbruekenではさらにPlattenbalken(版桁)、Hohlkastenbalken(箱桁)などに分類されています。 また、架橋場所では、Tal(タール)bruecke(峡谷橋)、Fluss(フルース)bruecke(河川橋)、さらに用途では、Fahrbahn(ファールバーン:道路)、Autobahn(アウトバーン:高速道路)、Eisenbahn(アイゼンバーン鉄道)、Fussgaenger(フースゲンガー:歩道)などに分類されています。

橋の名前は日本の場合とちょっと異なった付け方がされています。 峡谷橋の場合は峡谷の名前を先につけて、Moseltalbruecke(モーゼルタール橋)などつけられる場合が多いのですが、Lahntalbruecke Limburg (ラーン渓谷橋リムブルク)というようなものもあります。 河川橋の場合には川の名前を先に、そして架橋地名がつけられ、Rheinbruecke Rodenkirchen (ライン河橋ローデンキルヘン)、LahnbrueckeRunkel(ラーン河橋ルンケル)のように命名されることが多いようですが、「im blickpunkt」ではローデンキルヘン橋を<ライン河に架かるケルンのローデンキルヘン橋>という意でRheinbruecke Koeln-Rodenkirchen と 長い名前 で記載されています。


7.1 ライン河とその流域

ライン河は西ヨーロッパで最も重要で、かつ、風景明媚な河川です。 ライン河は運河として重要な交通網であるだけでなく、歴史の中でしばしば政治や軍事的事件の中心となりました。 ライン河は「母なるドナウ」に対して 「父なるライン」 と呼ばれています。 ライン河はスイスアルプスのゴットハールトとザンクト・ベルナディーノ山岳地帯の氷河にその源を発しており、それぞれ前ライン、後ラインといわれています。 この2つのアルプス地域の流れはアルプスラインのクールの少し前で合流し、ブレゲンツでボーデン湖に流れ込んでいます。 ボーデン湖に流れ込んだラインの水は、シュタイン・アン・ライン近くでボーデン湖から再び流れ出すのに、約60日を要します。 その後、シャウハウゼンの滝を通って、バーゼルまでを高ラインと呼びます。 バーゼルからマインツまでを上ライン、そしてマインツからボンまでを中ラインと呼んでいます。 下ラインでは、流れがだんだんゆっくりなり、河幅が広くなり、ルール地方を通り過ぎ、オランダを通って北海へ注ぐ全長約1320kmの大河です。 原始時代以来、ライン河は両岸の商人や入植者にとって自然の要塞となっていました。 何千年もの間、この要塞の越えるにはいかだやボートによって行われていました。


7.2 ライン河橋梁の歴史

--- いつ、どこで最初のライン河橋梁がつくられたか? ---

最初のライン河橋梁は、前・後ライン河の峡谷に架けられた小さな橋です。 人々は、川の上の倒木や、峡谷を転がった岩塊あるいは侵食によって生じた天然アーチのように偶然にできた自然の橋から人工的な橋を合理的に建設しようとしました。 これによりアルプスの非常に険しい山道を越えることができました。 ゴットハールトやザンクト・ベルナディーノ・パスを走行すること は今日でもなお興味深いことです。 古い石積みアーチが数多くある古い峠道と新しいパスのRCやPCの橋梁とのコントラストには興味をそそられます。

--- ローマ時代のライン河橋の建設 ---

建設技術に優れたローマ人は、最初の河川橋をアルプスでないライン地方に建設しました。 またカエサルが2度のガリア戦争(紀元前55年、53年)のとき、木製の橋を架けライン河を渡りました。 橋は約400mもの長さで、10日間で建設されました。 この橋はゲルマン人地域の偵察に利用され、軍事行動の完了後、すぐに解体されました。 カエサルは自らガリア戦争のことを記した本の17巻にこの橋の建設について記しています。 この技術はすべてローマ人によるものでした。 このライン河橋は、ノイヴィート-ヴァイセントゥルム付近に架かっていたと思われています。

高ラインのシュタイン・アム・ライン、ツールザッハ、上ラインのバーゼル-アウグスト、ケムプス、アルトリップ-マンハイム、中ラインのマインツ、ビンゲン、レマーゲン、そして下ラインのケルン、ヴォーリンゲン、ザクンテンでは、橋脚支柱の発見により、さらに多くのローマ時代のライン河橋の存在が知られるようになりました。 まだまだ他にも発見されることでしょう。

伝統的なライン橋マインツ-カステルは一考に値します。 最初のライン橋はドミティアン王がA.C.81年-96年にこの地に建設させました。 ジュリアン王はこの橋をA.C.357年に改築させました。 この橋の橋脚は重量の大きいレンガ造りの石積みから造られていました。

ノルトライン-ウェーストファーレン州のローマ時代のライン橋は、コンスタンチン王により、A.C.310年にケルンに建設されました。 この橋は、コロニア(植民地) とドイツ-カステルを結ぶライン河右岸の中心的な橋として架けられました。 橋脚の基礎には、尖った木製支柱が川底に箱型に打込まれ、かすがいで止められていました。 箱の間には、石製のパックが押し込められ、その上に重量のある石で積上げられた河川橋脚が14本建てられていました。 橋脚の上に組立てられた木製の上部構造はアーチ枠組となっていました。 必要な木材はアイフェルから運ばれ、石材はブロールタールやロートリンゲンから集められました。 ライン河床の発掘調査で、ローマ人総督は石運搬が困難だったため町以外の墓地から墓石を取り壊し、河川橋脚の建設材料として用いていたことがわかりました。



7.3 ローマ時代後の南マインツにおけるライン河橋の建設

ゲルマン民族大移動後、最初にカール大帝が再びライン橋の建設に力を注ぎました。彼は、マインツ-カステルのユーリアン橋の再建を命じました。ローマ時代の橋脚を利用して、803年から813年までの10年間の工事後、この橋は完成しましたが、この橋は供用されてすぐ焼失し、その後何世紀にもわたってライン河橋建設は行われませんでした。その後、橋の建設はライン河の南部でのみ行われました。アルプス越えの古い通商道路として、伝説に満ちたウリ州(スイス)の前ラインに架かる悪魔の橋、後ラインのフィア-マラ橋、高ラインのライン河流域の中世の木橋、上ラインのゴットハールト・パスの開通にともなうバセラー 橋(1225年)とブライザッハ橋(約1275年)、ストラスブルクの舟橋(1388年)などの橋がローマ時代後ライン河に架けられていました。ストラスブルグ以北のライン河には一つも橋は架けられませんでいた。数百年後してようやくマインツ(1661年)とマンハイム(1725年)に再び橋が建設されました。



7.4 ローマ時代後、マインツ以北のライン河には何が起こったか?

信じられないことですが、ケルンではコンスタンチン橋の崩壊以来何百年もの間ライン河橋が一つもありませんでした。 ボートや渡し船によって河を渡っていました。

18世紀の初め、ケルンではギアファーレン(ドイツ のファール、ミュールハイマーのギアスポンテ)と呼ばれる索伝いに移動する河川フェリーが流行していました。

大きな貨物フェリーは河岸に長いロープで固定されていたので、わずかに漕ぐだけでライン河を渡ることができました。 1822年ドイツのギアファーレは舟橋に替えられました。 その橋は、数珠つなぎにされた浮船と、その上に載せられた木製の床版からできていました。 浮船はアンカーとロープにより流れないようにしっかり留められていました。 船の航路には開閉できる門があらかじめ設けられていました。 舟橋の高度は、変化するライン河の水位に応じて変化しました。 利用に際して、通行人は『通行料』を支払わなければならなりませんでした。 舟橋に代わる初めての固定橋はコンスタンチン橋の崩壊後、マインツの北側のライン河に架けられました。



7.5 近代橋梁建設の最初のあゆみ

--- 背景 ---

啓蒙主義の自由思想と人口や交易の増大に伴い、18世紀のはじめから道路需要が増加しました。 それにともなって、橋梁建設の分野でも再び大きな変化が要求されました。

ジェームス・ワット(1765)よる蒸気機関の発明とジョージ・スティーブンソン(<ロケット>1829年、<マドラー>1835年)による蒸気機関車の発明は、新しい交通手段である鉄道の誕生となりました。 その結果、広大な鉄道網を敷くためにより大きな荷重と長いスパンを支える橋を建設しなければなりませんでした。 そのブームは急激でした。 1821年には最初の鉄道がストックトンからダーリングトンまで開通し、1835年にはドイツ初の鉄道がニュルンベルグ-フェルス間に開通しました。 1850年には世界で約40000kmの鉄道線路があり、1880年には鉄道網は10倍になりました。 鉄道建設はこのようなテンポに追いついていかなければなりませんでした。

ローマ時代から橋梁形式として一般によく知られた石造アーチと木製桁橋には限界がありました。 そのため、新構造システム、新施工法(新架設法)、新材料、および新計算方法が必要とされるようになりました。

--- 再発見 ---

フランス人、ペロネー(1708-1794)とスコットランド人、ジョン・レニー(1761-1822)は、石積アーチ工法で橋を造り、その限界を同時に示しました。 46mのスパン長はレニーによってテームズ河で達成され、この種の建設工法にとって大きな成果となりました。

また、古くから知られた木橋建設方法が見直され、さらに改良が加えられました。 グルーベルマンは木製アーチの模型実験を行なったうえで、シャフハウゼン近くの高ラインとスイスにスパン100mの橋を建設しました。 木橋はアメリカで数多く建設されています

トラス桁構造は細材で複雑に三角形が組み込まれた強く剛な構造ですので、橋の上に鉄道を走らせることができたのです。 しかし、この木橋の寿命はごくわずかでした。

--- 新材料 ---

多くの技術者の英知により、古くから用いられてきた建設材料である木材(短い耐久性)と石積工(限られたスパン長)の能力の限界が明らかにされました。 そこから新しい材料である鉄の時代がはじまるのです。

最初の鉄の橋はイギリス人ダービー(1750-1791)によって、セベルン河に架けられたコールブルックデール橋(アイアンブリッジ)です。ダービーは、脆くしかし非常に圧縮力が強い鋳鉄を用いてコールブルックデール橋を建設しました。 鋳鉄材料は多くの細かいアーチリブからなる構造には好都合だったのです。 1779年に完成したこの橋は30mのスパン長をもち、今日でもなお歴史的構造物としての評価が高く多くの観光者が訪れています。 この橋と同じように、過度なくらいまで豊かに装飾された鋳鉄製アーチ橋は19世紀に入っても広く道路や歩道橋として町中に建設されました。 しかしながら、鉄道橋としての大きな課題に対してはこの種の橋では不可能でした。

18世紀以来、延性に富む引張にも圧縮にも強い練鉄が製造され、さらに改良が加えられました。 19世紀前半には、錬鉄は鉄道の軌道や橋梁建設にとって十分な量と質がありました。 これによって橋梁技術の急激な進歩がはじまったのです。 19世紀半ばには、機械的に製造されるようになり、圧延鉄と呼ばれました。 19世紀末には、パドル-、トーマス-、ベッセマー-法により、圧延鉄は鋼として生産されるようになりました。

ジョージ・スティーブンソンの息子ロバート・スティーブンソン(1803-1859)は蒸気機関車を作りましたが、その蒸気機関車を通すためにウェールズのメナイ海峡に練鉄材料を用いて、ブルタニア橋を完成させました。 この橋はその構造形式が将来の方向付けとなるような長大橋だったのです。 箱型断面が上部構造に選ばれ、箱のデッキと壁面は当時のアメリカの木橋技術を模倣して網のように密につまったラチストラス桁構造により補強されていました。 この橋のスパン長は141mで鉄道がその中を通っていました。ほぼ同時期に、ドイツのレンツェ(1801年--1855年)もこのラチストラス桁構造を開発し、1847年--1857年にかけて、ヴァイクゼルとノガートにスパン長131mの橋を架けています。

=== ライン河における長大橋梁建設のはじまり ===

信頼できるラチストラス桁構造システムは、1855年に『ドームの枢軸』にあるケルンのライン河に架けられた近代的な橋の建設によりはじまります。 この橋はフリードリッヒ・ヴィルヘルムIV世の命によって建設されました。 このドーム橋は長さ103.20mで、4径間でライン河に架けられていました。 その形は管状であり、また鉄条網のように外側や上側にびっしりと支柱が配置されていました。 このため、俗に『ねずみ捕り』と呼ばれていました。材料には圧延鉄が使われていました。 2つの管は1車線の道路と2車線の鉄道を通していました。 ヴィルヘルムI世の代の、1859年10月3日に竣工式が行われました。 この橋で注目すべきことは、河岸に塔がありましたが、中央の河川橋脚に架けられているドーム橋の形は伝統的なデザインであったことです。 ドーム橋の後に建設されたホーエンツォーレン橋は今日でもなお維持されています。 河岸の支柱にはホーエンツォーレン王が馬に乗った彫像も再び復元されています。

同じ建設工法で、高ラインにヴァルツフート-コブレンツ橋(1858-59)、上ラインにケール-シュトラウスブルグ橋が建設されましたが、そのスパン長は50m以下でした。



7.6 ライン河における近代的橋梁の構造形式}

--- 構造力学の水準 ---

経験的な設計では信頼性と経済性を合わせもつことができませんでしたが、構造形式や材料開発の革新的な成果により、スパン長の問題に飛躍的な成果がもたらされました。 力学、数学および材料特性(物性)の学問体系が確立され、橋の建設に実用可能な状況になる機が熟していたのです。 レオナルド・ダ・ヴィンチ以来、多くの科学者たちもこの分野の一部において理論的に問題を解決し、その成果は今日の構造力学としてまとめられています。

最初の力学的計算は、Le Seur、Jacquier、Boscovichらと言われています。 彼らはペータードームの円蓋でのひび割れの原因を計算的によく証明しています。 しかし、構造力学の本質的な基礎はフランス人ナヴィエ(1785-1836)によるものです。 彼は『建築術の力学』においてすでに解かれていた問題を体系化し、さらに発展させました。 曲げ理論もフランス人クーロン(1736-1806)が提示したものです。 しかしながら他の多くの技術者が彼らの方法を実際的に応用してはじめてその成果が見い出されるようになったのです。

この当時、美観的に優れたドーム橋の平行線のラチストラス桁構造はトラス橋の種類に属します。 しかしながら、この構造は高次の不静定、すなわち当時はまだ計算することができない構造でしたので、この種の橋の建設では経験的知識がなお優先されていました。

カール・クルマン(1821-1881)が図式構造解析について本を出版し、それによってはじめてトラス構造物に対する信頼できる計算法が確立されました。 静定トラス橋はクルマンの方法で明確に解析することができるので、それ以来多くのトラス橋が建設されました。 また、一定の弦材力やできるだけ少ない部材力となる形状も考え出されました。

都市計画Fプラン(Blatt F)により、1870年にデュッセルドルフ-ノイス鉄道橋においてこのような構造システムの進展がありました。 この橋は形の上でも立派な橋で、中間にヒンジを有する連続橋として建設されました。 この橋の構造形式はハインリッヒ・ゲルバー(1827-1890)によって開発され、ゲルバートラスと呼ばれています。

1920年代末に美観上の要求が考慮され平行線トラスへ転換されるまでは、このようなどっしりとした橋が建設されました。 しかし美観的要求は満たしていなかったのです。今日ではトラス橋は美観的に優れたものとして認め難いといわれます。 ライン河橋では第2次大戦後このタイプの橋梁はわずかに二次的な役割しか果たしていません。

--- ライン河の鉄製アーチ橋 ---

設計者にトラス建設方法が好まれていた時期、アーチ橋の建設にも改善をもたらす技術が産み出されました。 その理論は石造アーチ時代から知られていましたが、1968年にE.ヴィンクラーにより改良され、都市計画Bプラン(Blatt B)によりアーチ橋建設に進展がもたらされました。 石造丸天井が産み出されたように、アーチの上に水平の床版を設置されたのにはじまり(1873、鉄道橋デュィスブルグ-ホッホフェールド)、橋脚に支えられた2ヒンジあるいは3ヒンジアーチの上にアーチクラウンの高さまでに設置された床版をもつ橋(1898、ボン-ボイテル橋)が架けられました。 これらの橋では設置された床版は、同時にアーチスラスト(水平力)を吸収して引張材となるのです。

重々しいトラス構造のアーチでできた長大アーチ橋が建設され、また力学上の単純化(3ヒンジ構造)も追求されたにもかかわらず、アーチ橋建設はいつもうまくいったわけではありませんでした。 アーチはまさしく円形状を保持してこそ、それにより原理的には好ましい効果を維持することができるのです。

第2次大戦後、スパン長255.10mの溶接アーチであるラインハウスナー橋が建設されました。 1986年の新鉄道橋デュッセルドルフ-ノイス橋はとりわけすばらしいものです。 これらの橋はアーチとトラスの複合理論は架設を考慮することにより得られた産物です。 アーチ橋は架設費用が高くなりますが、鉄道橋に対してはその大きな剛性を有しているため将来さらに重要な構造形式となるでしょう。

--- ライン河の吊橋 ---

アーチが主として圧縮力を負担する圧縮抵抗機能、はり(トラス桁を含む)は曲げ応力を受け圧縮力にも引張力にも抵抗する曲げ抵抗機能であるのに対して、吊橋は載荷荷重を引張部材で負担する引張抵抗機能をもつ形式の橋です。 これら3つの基本的な抵抗機能は、どんな橋梁形式の場合にも、それ自体、あるいは、それらを組み合わせることによって解析することができます。 吊橋の主桁部材の変遷は以下のように説明することができます。

第1ステップ

太古の人々が考えたのは、何本かの引張りに強い縄を峡谷に張り、峡谷の縁にある木に固定し、木の幹に植物の縄を結ぶことでした。 引張りに強くゆるんだ植物の縄は、構造用ロープでありまた同時に利用平面でした。 ロープの端部での引張力は木の幹を通して地盤に伝えられ、『真』のアンカーとみなされるべきものでした。

第2ステップ

太古の人々はさらに歩行するときにゆるんだロープの利用面が沈下し片側に傾くことに気がつきました。 このことは落下の危険性があることを意味します。 それで、彼らは利用面の上に2本の植物の縄を落下防止のための支え綱として張り、安全性を確保するため上側の支索と利用面の下側の構造用ロープとを垂直に配置した枝で結合しました。 この構造は垂直な枝との結合により、支索はある範囲までは構造用ロープに作用する荷重を分担するということがわかりました。

第3ステップ

緩んだロープが常に沈下するのは利用者にとって好ましくありません。 上側の支索を主索としての機能を持たせるようにし、下側に剛な梁を吊り下げました。 そうすることにより利用面の使用性は著しく改善されました。 吊橋の主構造部材である主索、補剛桁およびハンガーロープはこのようにして考案されました。

第4ステップ

人々は構造感覚を発展させ、木がない渓谷の所での橋梁建設を望むようになりました。 彼らは渓谷の縁の木の代わりにくい橋脚を建て、それを越えて主索を張り留杭やブロックを用 いて地盤に固定しました。 こうして、今日知られている『真の』(地盤にアンカーされた)吊橋が完成したのです。 くい橋脚は吊橋の主構造要素である塔に相当します。

吊橋構造は既に紀元前1000年頃中国で知られていました。 ヨーロッパの吊構造の初期形式は広い意味では騎士の居城の跳ね橋です。 そこでは橋は鎖で幾重にも塔に固定されていました。 これによって自然の植物から鎖へと主索が発展し、鎖式吊橋の概念が産み出されたのです。

ペンシルバニア(アメリカ)では1801年にジェームス・フィンレイという判事がスパン長23mの鎖式吊橋を建設しました。 その橋では主索に鎖構造として錬鉄製の継手部材が選ばれていました。

イギリスでは、トーマス・テルフォード(1758-1834)が1826年にスパン長175mの鎖式吊橋をメナイ道路に開通させました。 この橋は今日でもなお保存されています。

1913年5月から1915年7月17日までの建設記録によると、スパン長184mを越える美しい橋が建設されました。 主索の鎖部材として、自動車のチェーンのように大きなブリキ薄板が互いにヒンジ結合されていました。 そのような吊鎖部材は現在新ドイツ橋のケルン岸側に展示されています。 ドイツ橋の構造形式では、生じたケーブルの引張力を主索の端部で「真の吊橋」のように地盤に伝達させていませんので、「本物でない吊橋」として扱われています。 ケーブルを補剛桁の端部に結合することによって床版面(車道面)に圧縮力が発生します。 この構造形式が選択された理由は、ライン砂利への地盤固定がその当時まだ信頼できるものではなっかたからです。 当時の吊橋のほとんどは支持力の大きな岩盤に固定されていました。 吊橋の建設と開発はアメリカ人とイギリス人の独壇場となっていきました。

しばらくしてシンプルですが趣きがあるライン河の伝統的な吊橋である鎖式吊橋ケルン・ドイツ橋の建設が開始されました。 20世紀の最初の10年はケルン市の派遣団がブタペストへ派遣され、鎖式吊橋の構造を学びました。

基本的には1822年のドイツ舟橋は、既存のジィード橋やホーエンツォーレン橋のような形式の固定橋に取り替えられるはずでした。 しかしケルン・ドイツの鎖式吊橋の建設には競争入札が行われました。 専門家による地盤固定の賛否についての激しいの論争の末、1929年に当時ヨーロッパ一のスパン長315mをもつ『本物でない吊橋』が建設されました。 新しい技術としてはケーブルが鎖からロックドコイルドロープに替えられたことです。

ライン砂利へ固定することの可否の問題は、最初の吊橋、ライン河橋ケルン-ミュールハイム橋の設計においても大きな問題でした。

地盤固定の論争はライン河クレフェールド-ウェアディンゲン橋の建設でも起こりました。 『安全第一』のモットーの下に「本物でない吊橋」の原理に基づき主ケーブルとHビームとからなる吊橋が建設されました。 この構造形式は手綱橋と呼ばれます。 手綱を引っ張った馬車の構造作用と類似しているからです。 ケーブルの引張力は『本物でない吊橋』の場合のように上部構造の端部では導入されませんが、主塔付近の上部構造の位置で導入されます。 したがって上部構造は全体的にではなく部分的に圧縮部材として使用されるのです。

ライン河ローデンキルヘン橋(1938-1941)の設計・施工を行ったF.レオンハルト(28歳のとき)は、予備試験を行った末、スパン長378mの橋に張られた巨大なケーブル力をバラストした箱形橋台を使用してライン砂利に摩擦により処理しました。

ライン河で初めての「真の吊橋」は、当時ヨーロッパ一のスパン長をもつ橋と同時に、ライン河に架けられた初めての高速道路橋でしたが、その寿命は長くはありませんでした。 この橋は1945年1月28日に大爆撃により破壊され、1952年から1954年にかけて元の通りの形式となりました。 再建工事では多くの技術的なディテールが取り入れられました。 現在、拡幅工事が行われています。

ローデンキルヘン橋の経験に基づき、エンジニアたちはライン河橋エメリッヒ橋を建設しました。 この500mのスパン長を持つ真のケーブル吊橋は1965年に完成しました。 この橋はライン河で最大支間長をもつ橋ですが、アメリカや日本で建設された吊橋と比べると大したことはありません。 支間長の世界記録は、当時イギリスのハンバー橋(1410m)でしたが、日本の本州四国連絡橋はこの記録を破り1990mの吊橋(明石海峡大橋)が建設されています。

吊橋の構造形式はあらゆる橋梁形式の中で最もスパン長を長くできます。特別な基準が問題とならない限り、 500m以上のスパン長が必要とされるとき経済性が十分に発揮されます。



7.7 破壊と再建

--- 1945年:再び『ゼロの状態へ』 ---

戦争の終結は国民にとって救いでした。 しかし破壊と荒廃はあまりにも悲劇的でした。 食糧、燃料、住居などの日常必需品が不足しました。 何百万もの人々が命を失ったり、難民となったり、捕虜となりました。 このような状況下ライン河橋梁の状態も痛々しかったのです。 スイスの高ライン地域の橋梁を除いて、すべてのライン河橋梁は破壊されました。 住民の生計のためにはそれらの橋の再建は緊急を要する問題でした。 連合占領国の架設浮橋では十分ではありませんでした。 特に鉄道橋は緊急に供用できるようにしなければなりませんでした。 このような貧窮時には、大量輸送機関である鉄道によってのみ大量の必要物資を処理することができたからです。 構造材料も不足しているため在庫の戦争用橋梁設備や破壊された橋の一部を利用して、1949年までに暫定的ですが13の鉄道橋と6つの道路橋がライン河に再建されました。 これらの緊急の再建工事のはじめの段階で画期的な技術的進展が現れたのです。 その結果、ラインハウスナーとデュッセルドルフのアーチも解体されました。

--- ライン河の桁橋 ---

1948年に破壊されたケルン・ドイツ鎖式吊橋は変断面の主桁を有する184mのスパン長を持つ鋼製桁橋に取り替えられまし。 この橋は1980年に軽量コンクリートを部分的に使用したプレストレストコンクリート製の双橋として拡幅され、今日でもなお維持されています。 景観的にはほっそりして、優雅で、控え目な、風景に調和したこの形式の橋梁は、後でライン河に数多く建設されました。 ノルトライン、ヴェストファーレン州ではボン・ボイエル(1949)、デュッセルドルフ・ノイス(1951)、ケルン・ツォー(1966)、ボン・ジード(1972)などこの形式の鋼橋が建設されています。

プレストレストコンクリート(PC)工法は、戦後驚異的なスパン長を達成しました。 例えばライン河橋としては、ヴォルチス橋(1953年、114.2m)、ベンドルク橋(1965年、208m、この形式ではライン河最長)にみられるように数多くのPC橋が建設されています。 しかしながら架設費用が高いため桁橋の構造形式は必ずしも価格の安いものとはなりません。

--- ライン河の斜張橋 ---

ライン河橋梁建設のために技術開発上重要な転機がライン河橋デュィスブルク・ホムベルク橋の建設で起ころうとしていたのです。 この橋は1954年に「本物ではない吊橋」として設計されましたが、斜張橋構造形式が競争入札で提案されました。 橋の施工中この権利は正当なものとして認識されなければならなかったのです。

本来「本物でない吊橋」では主ケーブルとハンガーを取り付けられる前に補剛桁が組み立てられなければなりません。 所定の長大支間長になるまでに『補剛桁はできているが主ケーブルとハンガーはまだとりつけられてない』状態でした。 そのため安定性を確保するために架設物などの特別の費用が必要となりました。 この状態で、補剛桁を必要以上に補強しなくてもよいように主塔に対して規則的に補助ロープが張られました。 床版を一時的に斜めロープで主塔に架けることは面倒でかつ経費のかかるものと認識されていました。 したがって、厳しい競争入札では経済上有利な解決策が必要とされたのです。 幸いなことに、この斜めロープは完成後もなおそのまま放置しておくことに矛盾がないばかりか経済的であることがわかりました。 斜張橋の原理はこうして有効であることが確認されていったのです。



7.8 新しくとり上げられた計画

---主塔完成後、床版を段階的に組立てロープを引張り主塔の上部に固定する---

この新しい橋梁形式の採用は1957年にデュッセルドルフ・ニーダーカッセル道路橋(テオドア・ホイス橋:260m)ではじめて行われました。 2つの主塔が両岸に建設されています。 1959年に建設されたケルンのゼヴェリン橋はA型1本主塔で、放射型に斜ケーブルで300mを越えるスパン長を支えています。 これら2つの画期的な構造形式をもつ橋の建設により、斜張橋の構造形式(張弦梁ともいわれます)が次々に建設されるようになりました。

材料の節約、組立やすさ、賃金の節約など、非常に経済的であり入札でも十分競争することができたのです。

将来、斜張橋はライン河ではもっとも一般的な構造形式になることでしょう。 ライン河には、レーファークーゼン(1964)、カールスルーエ・マクサウ(1965)、ボン・ノルト(1966)、デュッセルドルフ・クニー橋(1967)、リーズ(1967)、デュイスブルク・ノイエンカンプ(1970)、マンハイム・ノルト(1971)、デュッセルドルフ・オーバーカッセル(1977)、ノイヴィード・ヴァイセントゥルム(1979)、デュッセルドルフ・フレーヘ(1979、1本主塔で368mのスパン長はライン河橋梁の記録)、デュイスブルク・エムシャーシュネルヴェク(1990)が斜張橋として架設されています。

斜張橋の構造形式は、「真の吊橋」とその他の構造形式の橋の繋ぎ役としてのスパン長を有する橋として位置付けられます。斜張橋の経済的なスパン長は200mから1000mといわれています。

7.9 結び

急激な橋梁建設技術の進歩はライン河に架けられたドーム橋の開通からはじまりました。新しい橋梁形式はその都度文化的な影響を受け、構造上および材料上の改良を通じて成し遂げられました。

厳しい入札でも技術者と建設会社は新構造形式や建設工法を開発することによってコストの面でも解決していきました。

斜張橋の場合、今日1m2当たり5000マルクの建設費になるのに対してドーム橋は今日の賃幣価値に換算すると1m2当たり17000マルク(総額12000万マルク)の費用がかかっています。 ライン河下流域のライン河橋梁の高速道路橋はどれも総額1.5億マルクから2億マルクの建設費がかかりました。 これまで建設された88本のライン河橋梁は約100億マルクの国民財産となっているのです。

多くのライン河橋梁の建設は多くの悲劇的な人々の犠牲の上でなりたっていることを忘れてはなりません。 現在の安全規定は、今日でもさらに多くのことが改善されていますが、幸運だったことも忘れてはいけません。 この幸運は今後将来の世代の橋梁建設を示唆するものであるかもしれないのです。




ドイツ滞在記

1989年ベルリンの壁崩壊の時期にドイツに滞在していました。 その当時、訪ずれたミュンヘンのドイツミュージアムには1階の誰もが最初に通過する場所に橋、ダム、運河などの社会資本の模型が展示されています。 私の子供たちも身を乗り出して見学していました。

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1994年の欧州土木構造物補修・補強調査団の一員としてパリ、チューリヒ、ドイツ諸都市、ベルギーを訪問しました。 ドイツのライン河橋梁では精力的に補修・補強工事が進められていました。

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橋の文化とテクノロジー

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